ノーガードという戦法(但し勝てるとは言っていない)

日々の思考を徒然とキーボードで打つブログ。

それはあの日見たままの濃く鮮やかな紅蓮だった。

昨日品川でメトロノームのライブを観た。

でもここでライブの感想について書くつもりはない。最高だったのは当たり前過ぎる。

 

遥か昔。僕にとっては遥か昔。

その日行く予定だったライブに大幅に遅れた事が一度だけある。

祖父の容態が急変して入院の手続きやら何やらで足止めを食らったのだ。

勿論僕が食らった訳ではない。

電車の乗り方も、地図の見方も今でもあまり理解出来ていない僕は、母親の付き添い無しではライブハウスに行く事が出来なかった。

だからこそ僕は母親に言った。

「出来ない自分が悪い。だから行かない」

時間は開場時間をとうに超え、開演も間近と言った所。

一番後ろの大きな扉が開くとうっすら入るあの光が、僕は大嫌いだった。

ステージと客席で作り上げられた雰囲気に水を差された気持ちになって、現実離れした筈の空間が一気に現実によって暴かれる。マジックの途中で他人から種を明かされた、そんな時に似ていると思う。

真っ暗な空間でライトを浴びているから、ステージは輝く。

真っ暗な空間でそれを見上げているから、ステージは輝いて見える。

その約束を破られた、そんな感じだ。

 

だけど母親は行くと言って聞かず、ライブも中盤という時分にその扉を開ける張本人になってしまった。

次の瞬間視覚と聴覚を歌が貫いた。アルバムの中のタイトルで、恐らくこの日初めてライブで行われたであろう楽曲『薔薇と紅蓮』。

黒と赤のコントラスト。

一度聴いた瞬間に心を奪われた歌詞。

生の声、生の表情、立体的な音圧。

それはCDで聴いた瞬間も、MP3プレイヤーで繰り返し聴いた時間をも軽々と超えて、僕をジャックした。

 

僕は記憶障害を持っているから、大抵の過去は忘れてしまう。

忘れた事も忘れてしまう程に。

それでも時々こんな風に、正に焼き付けられた様に記憶が残る事がある。

僕にとってこの一連の出来事と『薔薇と紅蓮』は特別なモノになった。

 

そして昨日観た『薔薇と紅蓮』は、その会場の空気は、あの日をもう一度再現したと思える程同じ色をしていた。

何が辛いのか聴こえる。どれ程辛いのか見える。同じ傷が自分にもあるのだと気付く。

シャラクさんにもまだそれがあるのだと、気付く。

 

血溜まりの紅。

酸化した血と落ちる血が混ざった生と死の色。

 

そうか、忘れていたのだと気付いた。

自分がまだきちんと血を流している事を、すっかり失念していた。

遠い昔の知らない自分が、生きる為に手放した痛覚と記憶。痛覚と記憶が無ければ辛い事も無くなる筈だった世界。無くならなかったから矢面に自分が立たされている世界。

世界も自分も何一つ変わっていやしない。それすら忘れている事実。

 

ライブに足を運ぶ理由。

杖をついて、未だによく分からない電車に乗って、知らない道を歩いてまで行く理由。

気付かないまま負っている傷に、ちゃんと気付きたいからだ。

痛覚が無くても記憶が無くても負傷し続けている、他者の傷を見ることでしか自分に反映出来ないそれを意識に昇らせなければ。

きっとまた突然倒れて瀕死になってからじゃないと解らないから。

手当ての方法は今以て分からないけれど、自覚や自認で少し庇うくらいは出来るから。

這いつくばって死ぬまで意識を保つ為に。