僕らは『多様性』に縛られている。
多様性。
ありとあらゆる場所で耳にする言葉だ。
それは平たく言うと『社会や個人が十人十色に対応すべきである』という主張に感じる。
例えば僕は精神障害者としての立場とLGBTQ当事者の立場の2つがある。
『障害により働く権利が損なわれてはならない』
そう言われても、刻一刻と目まぐるしく変わる体調や健常者からは思いもよらない『出来ない事』が沢山ある。
「必死に働いて死なない程度の生活しか出来ない」
「月13万円稼ぐのがやっと」
「ブラックでも辞められない」
健常者が必死になって掴める現実がこんな悲惨な物なのに、どうして足を引っ張るのが目に見えている障害者を受け入れる事が出来るだろうか。
特に発達障害についてのコラムや法人向けの説明でよく見る
「発達障害に定型はありません。1人1人の得意不得意を見て仕事の内容や量を決めましょう」
といった一文。
そんな余裕があればそもそも健常者は必死にならなくても生きていける筈である。
生活維持の為に必死に働いている所に
「どうも障害者です。発達障害なのでこちらの意図を汲んで下さい」
とかいう新人が来たら、誰だって頭の中でぶっ飛ばす。
まず健常者にとってやさしい社会になってから僕らを呼んで下さいと言いたい。
次にLGBTQの話。
「性同一性障害なので体とは逆の性別扱いして下さい」
そう言われて、外見は女装した男を女子更衣室にすんなり通せますか?
外見はすっぴん短髪なだけの女性が男子更衣室で脱ぎ始めても微塵も動揺しませんか?
断言はできかねると思います。
「同性愛者です」
とカミングアウトされた場合はどうでしょう。バイセクシャルだったら男女両方が対象です。
『異質な物に狙われるかもしれない』という不安がゼロであると言い切れますか?
告白されて断ったら、告白された事実も断った事実も噂になって広がりますよ?
そろそろお気づきの方もいると思いますが、こうした様々な『多様性』を『半強制的に』受け入れなければならない。
これが現状だと思います。
「私は異物ですけどそれに気付かないふりをしながら御膳立てて下さいね」
そんなメンヘラは誰だって頭の中でぶっ飛ばします。若しくは君子危うきに近寄らずのスキルを発動します。
出来ない事は出来ません。
無理をすればいつかしっぺ返しを食らいます。
それはマイノリティもマジョリティも同じ事だと思います。
今の社会は何となくマイノリティの暴力に屈してこそマジョリティである、みたいな変な責任感というか、プライドみたいな物があるんですよね。
勿論僕らも大半はそんな事は望んでいません。だって当事者が一番よく解っている事だから。経験してきた事だから。
足が無ければ徒競走には参加出来ない。
いくら女装をしたところで妊娠も出産も出来はしない。
それを慮ってくれとは言えないよ。配慮されても哀しいだけだ。
多分本当の多様性というのは、健常者もどんどん行使してこその言葉だと思う。
「ピーマンは嫌いだから食べたくない」
「アレルギーなのでピーマンは食べられません」
この2人は同じ立場。勿論アレルギー寄りの方で。嫌いだから食べないのはワガママじゃない。食べないという選択肢を選べてこその多様性だと、僕は思う。
もしも世界にピーマンしか無くなったら? ピーマンを食べなければ死ぬとしたら? みたいなIQ0の問いなんか考えなくていい。むしろ世界をそこまで追いやった原因の方が問題だろ。ピーマン嫌いを説得してる場合か。
現実的に考えればピーマンを食べられなくても何ら問題は無い。他の食物で栄養を補えばそれで解決。フードロスを叫ぶならクラスのピーマン好きな奴にでも食わせておけ。美味しいデザートの取り合いみたいにピーマンも取り合って良し。
実際、僕はそれで牛乳をずっとクラスの誰かにあげてたし。母乳で育ったのに乳製品アレルギーな訳がないとかいう謎の理論で検査も受けさせてもらえなかった親元で育ったんでね。
だからもっと健常者も「出来ません」って言っていいし、そうじゃなきゃ双方が多様性って言葉に押し潰されて死んじゃうと思う。健常者も障害者も関係なく「出来ません」って言おう。あと余裕があったら「それやりましょうか?出来るんで」も言おう。
そのピーマン食べましょうか? 僕ピーマン好きなんで。