ノーガードという戦法(但し勝てるとは言っていない)

日々の思考を徒然とキーボードで打つブログ。

幸せを乞う事に理由は必要か。

NHKで放送していた脳チップについての番組を観た。

 

脳にそのチップを入れ(現在では既に電極を被るだけで良い)外部のコントローラで入力すれば感情を意のままに操れるという技術。

開発者本人は逝去するその時まで

「これはナイフと同じだ。医者も暗殺者も使う。使う人間によって善か悪かが分かれるだけで技術は決して悪ではない」

と信じていた。

 

番組では独裁者や軍人が用いる危険性や倫理を通しての疑念を前面に打ち出していたが、果たしてそうだろうか? と俺は思った。

なのでその過程を書きたい。

 

まず、どんな世界・社会であってもその装置で幸福感や喜びが得られるなら民は幸せである。

その装置を介しての幸せだと解っていようが感情が動いているのだから理性の前には及ばない。実際現実に自分が幸せであるからだ。

 

では披検体として俺自身を用いてみよう。

番組内では個性の書き換えも可能だとあったので良い例になる筈だ。

 

最初に変えるのは性自認である。

FtMである自分を『私は女性で間違いありません。今までが間違っていました』と書き換える。

性別の次は価値観だ。

偏っている様々な価値観をマジョリティ側に書き換えよう。周囲の不快指数は激減間違い無しである。

更に元々備わっていない愛情も作れる筈だから、恋愛をして結婚をして子供を産んで育てよう。

その全てが嫌ーーー否、そもそも厭世家の自分などもう書き換えられているのだから全うな社会人生活を送れる。

こうして僕という人間1人を披検体にするだけで、失われた労働力と生産力が1人分丸々回復する。更にその当人である僕は装置によって幸福と喜びに満ち溢れる人生を送れるようになるのである。

 

人権だの自由だの、そういった目に見えない物を信じている方は一度考えてみるといい。

本当に今のあなたは歪みの無いあなたその者なのか?

その健康や地位を剥奪され、身に覚えの無いレッテルを貼られてドン底まで堕ちたとしても、それは歪みの無い自分が選んだ正しい道だと胸を張れるのか?

 

既にこの世の中には様々なコントローラが存在していると俺は思う。

人によりそれは陰謀や裏の~と姿を変えるが、つまる所世界から個人までをコントロールしている物は全てコントローラだ。

洗脳されていないと断言出来るか? 信じている神が偽物だと証明されても尚信仰出来るか?

自分以上に自分を知り操っている存在など居ないと言い切れる証拠はあるか?

 

俺は全てにノーと答える。

そもそも自分の意思が本物だと信じてなどいない。

これを書いているのも自分の意思ではないのかもしれない。

それでも書きたいから書いている。書きたいと思っているとしても、思わされているとしても、そんな事はどちらでも構わない。

『俺は書きたい』そう感じているという事だけが俺にとっての事実だからだ。

 

辛い死にたい生きていたくない。

それしか人生に感じていない俺が脳チップによってマジョリティになり幸せを得る。

それがまやかしだろうがインチキだろうが構わない。

人が幸せを乞う事に理由は必要だろうか。

人が幸せを乞う事に、倫理は必要だろうか。

倫理によってもたらされる不幸は、必要だろうか。