ノーガードという戦法(但し勝てるとは言っていない)

日々の思考を徒然とキーボードで打つブログ。

あなたの友達であるという罪。※編集有り

遅ばせながら映画『友罪』を観た。

 

誰しもが罪を持ち、購う術も無く、その重みを抱えて生きる事が稚拙で唯一の償い足り得るのかもしれない。

加害者とその周囲にフォーカスを当てたこの映画は、罪と罪人に寄り添う者の罪を問いかけている様に感じた。

 

自分には生きる価値なんて無い。

しかしそれでも死は悪とされ、生を強要される。

どれだけ辛くとも、また様々な非難や侮蔑をされようとも、生き続けなければならない。

失った命も犯した罪の被害者も、かつての平穏な日々は取り戻せないのだから。

 

自分が生き続けなければならない理由をずっと考えていた時期が、僕にもある。

親は世間体を理由に自殺はおろか自傷行為も禁じてきた。

『ただでさえ精神科に通っているのだから』

前時代的だと思われるかもしれないけれど、世間の風向きがそう簡単に変わる事は無いというのが現実で。

迷惑を掛け続けているのだから、自殺という重罪は決して犯すな。そんな理不尽な脅しが死なない最初の理由だった。

 

次に考えたのは『何故自殺や自傷行為が悪とされるのか』について。そして『何故生きる事が善とされるのか』について。

僕は精神障害者で普通の生活は望めない。就職も結婚も充分な稼ぎも得られない。つまり人間として最低限の社会生活が送れない。それも一生。

色々考えて辿り着いた答えは

『生きて苦痛を受け続ける事が罪を犯した者に課せられた罰であり、その罰は死ぬまでーーー否、死してなお続く永遠の咎である』

という事だった。

 

自分が存在しているという罪を生きるという苦痛をもって購う。

それは矛盾しているし終わりの無いループだけれど、その割り切れなさこそが罪であり罰である。

そうして葛藤しながら、食事をし、眠り、薬を呑んで延命し、死にたい自分と生きなければならない自分とで死ぬまで殴り合いをする。心身がお互いを傷付け合う。

罪を背負って生きるという事の結論はこうだった。

 

一方で僕という存在を生んでしまった両親もまた作中に描かれていた彼らと似ているのだと思う。

父親は僕より先に……というより元から壊れていて、早々にアル中で死んだから僕に対するあれこれはあまり考えなかっただろう。

母親は今も健在で僕と一緒に暮らしている。

昔訊いた事がある。

「どうして俺を殺さないの?」

母親はこう返した。

「お前ごときを殺して私の人生を台無しにして堪るか」

その返答は母親が僕という存在と自分との関係を考えてきた事を現していた様に思う。

生んでしまった自分が為すべき事と、一方でそれは紛れもなく1個の命である事。

責任と感情。理性と衝動。

両親の反対を押しきってアル中無職と結婚し、子を孕んだ事実。

そしてネグレクトをしてきたという過去。

それらと向き合っていたからこそ、僕の問いに迷い無く即答できたのだと。

 

映画の本題である『友罪』。

僕にも少しばかり友人がいる。

皆僕の罪を知っている。分かっている。その上で友人でいてくれている。

僕という存在と関わり、それなりの衝撃を受け、それでも友でいると決めてくれた人達だ。

僕もまた彼らに与えてしまった衝撃の意味を知り、それでも友であってほしいと願い決めたのだ。

 

変えられない過去。変わる事の無い罪。

大小様々あっても、人は皆そうして罪を背負い、沼を這う様にして生きている。生きていく。

そのやりきれなさを、どうしようもなさを直視した作品だった。