ノーガードという戦法(但し勝てるとは言っていない)

日々の思考を徒然とキーボードで打つブログ。

それは遠い昔に手の届かなかった宝石だった。

映画『生きてるだけで、愛。』を観た。

きっかけは前に借りてきた何かのDVDに入っていた予告編だった。

暴れるメンヘラ女と、それを抱き締めて止める男。

それは女と呼ぶには自分過ぎたし、男、というよりも菅田将暉。の、表情。

あまりドラマや映画を観ない僕でも彼の名前は知っている。

彼は剰りに危うく無防備で死んでしまいそうな顔をするのに、その無防備なまま生命力のある眼をしていた。

透明で強かなグラスファイバーみたいだと思っていた。

 

その彼が、まるで本気で彼女を受け止めているような顔をしたから。

その眼の先にいる彼女を見たい。そう思った。

 

結論から言うと、彼女は見紛う事無くそう在りたかった自分だった。

そして彼は、僕が手を伸ばすもっと手前に諦めた露店の宝石だった。

 

叫びたい。喚きたい。湧き出る罵詈雑言に隠したSOSに気付いてほしい。

衝動のまま死んでしまいたい。

衝動のまま眠ってしまいたい。

全て無かった事にして、自分なんて無かった事にして、望まれるまま生きて望まれるまま死ねたらいいのに。

何も出来ない。許されもしない。

 

僕はそういう人間染みた自分を遥か昔に焼き殺していた。

衝動という自分を理屈という自分で押し潰して押し潰して、その圧で焼き殺した。

反動で残った自分にはもう、正常な精神も感情も何も残っていなかった。

だって、両親も育ての親である祖母も、学校の先生も、周りの大人は皆それを認めてくれなかったから。それをきつく叱ったから。

だから僕も僕を叱ったし、叱られる僕なんていなければいいと思った。

僕は僕の敵である僕を殺したのだ。

 

劇中で彼女が言った

「私は私と一生別れられない」

それをある程度やって退けたのだと思う。

まだほんの、幼く脆い内だったから。

 

きっと彼女が今の僕を見たら羨ましいと思うだろう。

僕が彼女を見て受け止めてくれる存在を羨むように。

 

そして同時に僕は彼に僕を、彼女に昔守れなかった彼女を思う。

僕が殺してしまったそれを、彼女は持っていた。

だけど僕は菅田将暉のように彼女を受け止める事が出来なかった。

先日観た『友罪』の生田斗真と同じ、電話越しの彼女の状態なんて容易に想像出来ていたのに、支える力も耐える勇気も無くて突き放した。

誰よりも僕が解ってやらなければいけなかったのに。そのSOSを断ち切った。

そうして彼女は命を絶った。

まるで僕の罪の様に、僕が殺したかの様に、その後悔も傷跡もずっと膿んで治らない。

 

前回の『友罪』も今回の『生きてるだけで、愛。』も、忘れてはいけない忘れる筈の無い過去と自分を再確認したくて観たのだと思う。

それを失うのはあまりに怖すぎるから。

それが僕の原点であり原罪だから。

 

菅田将暉の様になれたら。メンヘラ女みたいになれたら。

僕を受け止めてくれる人間が、幼い頃の僕にいてくれたら。

僕という人間の存在が、許されていたなら。

 

ifもanotherも無い現実という時間軸の中で、娯楽の中にそんな幻を観た。