僕に見えていた平成という時代。
今日は平成最後の日である。
だから、僕が生きてきた平成という時代を等身大で振り返ってみようと思う。
個人的に平成の始まりはジュリアナ東京の閉館であった。
バブル崩壊の煽りを受けてなお残っていた一縷の輝きはここで完全に潰えたと感じた。
後はもうただ日本という国全体が暗闇に呑まれていったように思う。
株価が上がるようにと偉い人がカブを頭上高く持ち上げていた。
これは安全であるとカイワレか何かを偉い人が食べていた。
政治家達は滑稽でハリボテみたいな演出ばかりしていた。
若者の間では自殺が流行った。
『完全自殺マニュアル』なる物が大ヒットし、集団自殺もブームになった。
"死にたい"という気持ちの共有が広がり、自殺という手段が社会への反旗の1つになった。
世紀末にはアンゴルモアの大王が来て世界は終末を迎える筈だった。
皆期待していた。
空から降ってくる全ての終わりに希望を抱いていた。
誰のせいにしなくても、不条理な何かによって終わらせてもらえる。死なせてもらえる。
『自分探し』や『スピリチュアル』といった眉唾な物もブームになった。
目の前の現実は偽りであり、精神を研ぎ澄ました先に見えた物こそが真実である。
そしてその時流に乗ったのがオウム真理教。
無差別テロ。地下鉄に撒かれたサリン。最後は排気口の奥で札束を抱えているところを捕まった教祖。
もっとも印象的だったのは酒鬼薔薇聖斗だ。
子供は悪足り得る筈が無いという前提を根底から覆し、彼は子供も人間であり思考する存在だという事実を立証してみせた。
少年犯罪の年齢を下げさせるという、法律にまで影響を与えた数少ない人物だった。
小学生を殺害し、その生首を小学校の正門に置き、声明文を残す。
そんな小説ですら見ないような犯罪を犯した中学生。
社会を揺るがしたこの事件が忘れ去られた頃、再び起きた事件も印象的だった。
小学生の女子がクラスメイトを椅子に座らせ、その後ろに回り込んで片腕で頭をホールド。もう片方の手に持っていたカッターで真一文字に首を切って殺害した。
そんなある意味優秀な子供達がいる一方で間抜けな大人もいた。
インターネットの掲示板で無視された事に腹を立て、秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んだ挙げ句刃物を振り回して即逮捕。
大人でも成熟してない奴は大勢いると呆れた事件である。
そういえば中学生がバスジャックをした事件もあったがそれはあまり印象に残っていない。子供の犯罪に慣れていたからだと思う。
時間軸が前後するが阪神淡路大震災でグニャリと曲がった高速道路やツインタワービルに旅客機が突っ込んだ瞬間もドラマか何かのように現実離れしていた。
社会的、世界的ではないにしろ衝撃を受けたのはアイルトン・セナとHIDEの死である。
僕の誕生日である5月1日はセナの命日であり、翌2日はHIDEの命日だ。
だから誕生日に良い気持ちはしないし良い思い出も無い。彼らを思い出す日でしかない。
しかし、明日。
僕の誕生日に令和という新しい時代が始まる。
新天皇即位の日である。
その喜ばしい日と共に迎える事が出来るのを誇らしく思うし、厳かに向き合える。
平成は日本という国の終わりの始まりだった。
きっと令和は終わりの終わりの年月を辿るのだと思う。
それでも僕は昭和から平成を経て令和を過ごすだろうこの人生を、少しだけ特別だと思う事が出来る。
貴重な時間を生きてこられたのだと、思えるのだ。