ノーガードという戦法(但し勝てるとは言っていない)

日々の思考を徒然とキーボードで打つブログ。

怨念 VS 拡散速度

唐突だが前から気になっていた事がある。

 

VHSによって拡散を試みた貞子。

あ、ちなみに貞子っていうのは映画『リング』に出てくる怨霊な。

貞子はVHSをダビングして誰かに見させる or DIE を視聴者に迫る。で、ダビングしたVHSを見た奴にも同じ事を迫る。これでねずみ算式に増える事ができるって寸法だ。

 

さて、時は経ち今はYouTubeなんて物がある時代である。

例えばインフルンサーと呼ばれる人間がYouTubeに呪いの動画をupしたとする。

誘い文句は何でもいい。流行に乗っていなければ落ち着かない人達は我先にと見るだろう。やがてそれは流行に感心が無い人々の耳にも入ってくるようになる。

 

俺は流行に興味が無いので分からないが、もし1日で1万回再生されたとする。

呪いのビデオを見た証として視聴後すぐに貞子から電話がくる。そして一週間後に死ぬので、それまでにダビングと次の犠牲者を出さなければならない。さもなくば一週間後に貞子が直々に殺しにやってくる。

これを貞子視点で考えてみよう。

同時視聴者が千人いたとしたら、まずその千人に電話をしなければならない。そして累計1万人に電話をしなければならない。これはまだ初日である。

翌日以降は当日の視聴者に電話+これまでの視聴者が次を見つけたかの徹底監視をしなればならない。

次に繋げた人間はリストから外し、繋げられた人間と新規参入をリストに加える。この時同じ人間が被っていないかのチェックも必須である。

更に初日から一週間後以降は次に繋げなかった人間達を殺しに行かなければならない。電話はまだしも殺すのは自分が相手側に出向かなければいけないので、モニターから這い出て一人一人丁寧に殺していくという正に手作業だ。

電話対応と顧客リストの更新と殺しに行く絞め作業。

 

これ、貞子一人では流石にキャパオーバーじゃね?

 

とは言っても私怨である以上他人に委託する訳にもいかない。

この場合どう考えても貞子が過労死するんだけど、ちょっとその辺を貞子さんに訊いてみたい。

 

さて、貞子にはもうひとつのパターンが存在する。

貞子の呪い、そして願いは自分が拡散する事だった。もっと人間臭く言うと子孫が欲しいという事だ。

VHSの頃は現実に形を持つ媒体だったので物理的に増える事が出来たが、YouTubeの再生数や視聴者人数はどんなに増えても物理的には物好きがコピーした物を含めて十数本程度しか子孫がいない事になる。

再生毎に子貞子が生まれて電話対応から殺しに行くまでやっていると考えるとそれはそれで中々に可愛いが、ここでは別の監督が作った設定を拝借しようと思う。

 

貞子は生きたかった。

何なら生前恋人候補の男だっていた。

でも自分では制御出来ない超能力と、男性器も女性器も併せ持つ身体的特徴によって恐れられて殺されてしまう。

そこで彼女はこう考えた。

女性の体を乗っ取って妊娠出産をしよう。

呪いにかかった男は殺し、自分と愛称が悪そうな女性も殺し、思考や性格が似ている女性を探し続ける。

この場合増殖が目的ではないので適当に電話をかけて適当に殺せばいい。ターゲット以外に執着する必要は無く、あくまでターゲットを見つける為の手段としてダビングや動画のコピーをさせれば良いのだ。

労力は然して変わらないのだろうが気楽さが全然違う。

 

最後に自分で考えた効率重視の策を書いてみる。

動画を見た段階で対象にいわばトラップカードの様な呪いをかける。

見終わった直後に電話が鳴るのも、不可思議で不気味な現象が起きるのも、全てやっているのは貞子ではなく犠牲者本人の仕業なのだ。

トラップカードの効果は『対象の恐怖の具現化』。

そして七日目には、自らが作り出した貞子に殺されるのである。

 

個人的には最初の忙しくてバタバタしてる貞子さんが可愛くて好きだなぁ(笑)

最高なろくでなし人生。

バイトに復帰した。

体感的には一週間程の長い休暇をもらってしまって申し訳ない気持ちで一杯だった。

でも、驚く事に同僚全員が「そんな緊急事態に休むのは当然だし、身代わりくらい健康な奴にさせる」と言ってくれて、心配までしてもらってしまった。

 

体調管理をきちんとする事は常識だから苦言を呈されると思っていた。

でも「お前は障害者なんだし、最近季節の変わり目とか台風もあったし仕方ない」とフォローされてしまった。

控えめに言って最高な職場である。

 

内視鏡検査の結果や今の体調の話題から自然と「早死にしたいでござる」って話をしたら

「は? 健康で長生きしろよ。じゃなきゃPS10とかやれないんだぞ」

と返された。それで老後のゲーム生活の妄想話をして、最後に二人して

「老衰で死ぬ間際に思うんだよ。最高のゲーム人生だったなって」

ってハモった。正確には『最高のゲーム人生』の所でハモった。

 

初めて老いた自分を想像出来た瞬間だった。

未来どころか明日の生活すら自信なんて皆無で、隙あらば死ねるようにずっと準備をしていた。いわば死に待ちの日々である。

だから生きている未来を想像したことも無かった。こんな人間が生きていける隙間は無いとも思っていた。

それなのに容易に想像出来てしまった。

近所の子供やら若者から

「いっつもゲームやってるあそこのじーちゃん、ゲームの知識だけは凄いんだぜ。ほらあれも最新機種だろ?」

と、そんな風に言われている自分が。

 

就職も結婚もしていない。子供も孫もいない。ずっと独りの偏屈なじーさん。

だけど楽しそうにゲームをやってるって事は何故か近所の数人は知ってる。実は近所の子供にせがまれてポケモンの交換とかしてる。

それは大多数の大人からしたらろくでもない生き方だ。だけど、少なくとも今この瞬間その生涯を『最高のゲーム人生だった』と一緒に言ってくれる人間がいた。何ならハモった。ていうか『最高のゲーム人生』なんてワードでハモるか普通? 何だよゲーム人生って(笑)

 

相手は冗談半分なんだろうし、現実の人生がそんなに甘くはないと知っている。

何なら緑内障全盲になるのも確定してるし既にswitchの体を動かす系のゲームは出来ない。杖ついて歩くレベルだし平衡感覚がお亡くなりになってるからな。

でもそれを承知の上で思ったんだ。

そうやって生きてもいいなら、老いて死ぬまで生きるのもいいなって。

 

夢を見るのは寝てる時だけにしろ。そんな事は百も承知だ。

33年間という人生の中で初めて「生きていくのも良い」と思えた。死に待ちじゃなくて、生きていくという選択肢。

それだけで、この人生は多分最高だったんだろうなって気分になれた。

これから寝て明日起きたら忘れていたとしても、こうして言ってやりたい。

 

こんな生き方をたった一人から認められた。それだけで最高じゃんね。

AIに仕事を任せたその後、僕らは肉の壁になる。

近年騒がれている『仕事をAIに奪われる』事案。

僕がバイトしている場所でも人件費削減の為にセルフレジが導入され始めた。

しかしだからこそ"人間にしか出来ない仕事"が見えてきた。

 

日本独自の文化として『お客様は神様である』という概念がある。

そして対を為す様にクレーマーという存在がある。

ルフレジで溜まったフラストレーションはレジに居る僕ら"人間"にそっくりそのままぶつけられる。

機械に文句は通じない。それくらいはどんな機械音痴でも時代遅れの奴でも解っている。文句を言ってすっきりする為に必要なのは人間という『肉の壁』に他ならない。

 

人間にしか出来ない事。人間が求める人間の職業。

それこそがクレーム処理を始めとする理不尽な愚痴聞き役なのだと思う。

 

占い、人生相談、サポートセンター、そしてレジカウンター等の即対応出来る人員。

加えてAIのサポートとしても理不尽への対応が求められる。

例えば『不要なレシートを捨てる所』にレシート以外を捨てる人間は多い。それどころか紙以外のゴミ、ゴミじゃない物を捨てられている事だってある。

それらを分別するのは想定外という理不尽に振り回される事が出来る人間にしか勤まらない。

中身が微妙に残ったままの缶チューハイや寒さ凌ぎに入って来たまま寝てしまうホームレス。

まぁAIの対応としてはどっちもゴミとして捨てればOKなんだろうが、そうすると片方の場合店の評判は落ちること間違いなしである。

 

多分人間に残される最後の仕事は人間の処理なのだと思う。

AIに世界を牛耳られて家畜同然に飼育される存在になろうとも、人間という愚かな存在の対応はきっと人間にしか出来ない"仕事"であり続ける。

色んな意味でオープンな病院だった

昨日ちょっと派手に下血をしたので行き着けの病院に行ったら紹介状を渡されて大きな病院に流されてしまった。

 

さて、知らない大きな病院の内科。

大きな病院と言えば待ち時間の膨大さである。

例に漏れず滅茶苦茶待たされた。

が、今回ばかりは待ち時間のお陰で色々面白い場面に立ち会えた。

 

内科の待合室の側に色々な受け付けや簡単な看護士の作業所? があり、まず看護士達の私語が普通に聞こえる。

特に昨日は台風直撃の前日という事もあり、シフトや当直なんかの相談がよくされていた。

そして正午過ぎだったので皆さんお昼休憩。コンビニ袋からお弁当箱まで各々手に下げて通りすぎていく。何なら科や役職違いの友人同士でランチなんて組み合わせも見かけた。これは物凄く意外である。

 

それらを興味深く観察していると自分が通ってきた道からストレッチャーが運ばれてきた。

看護士さんは救急隊員と

「ご苦労様ですー。迷わずに来られましたか?」

と穏やかな社交なんかをしながら状態の確認や各医師への連絡をしている。

ストレッチャーに乗せられているご老人は「寒い……」と繰り返しているが処置のしようがないらしく総スルーを食らっていてちょっと可哀想だった。

どうやら最初に運ばれてくる場所も此処らしい。

 

少し遅れてご家族が到着。

「いきなりだったからオデン鍋ごと放って来ちゃったよー」

「何やっぱり倒れたんだって? だから行っとけって言ったのにさー」

と世間話に花が咲く。恐らくご老人の子供だろうが同じ高齢者には変わらないのでこんな場面も日常らしい。

 

さて、それが過ぎ去ると今度は受け付けのスタッフと世間話を始めるオジサンとあちこち歩き回ってしまうせいで毎回探される蛍光色の服のオジサンの登場である。

そこに転院の手続きに来たらしい大きな車椅子に固定されている老人も加わる。しかも勝手が分からないらしく付き添いのスタッフさんが看護士さんを探しに置き去りにして行ってしまう。

 

僕が病院に着いたのが正午過ぎ、全て終わって病院を出たのが午後4時過ぎくらいだったので結構待ち時間はあったのだが全然退屈しなかった。

こんなにもオープンな病院があるとは思わなくて新しい発見である。

 

ちなみに17日に精密検査があるのでそれまで自分の病名はまだ分からぬ!!

それはあの日見たままの濃く鮮やかな紅蓮だった。

昨日品川でメトロノームのライブを観た。

でもここでライブの感想について書くつもりはない。最高だったのは当たり前過ぎる。

 

遥か昔。僕にとっては遥か昔。

その日行く予定だったライブに大幅に遅れた事が一度だけある。

祖父の容態が急変して入院の手続きやら何やらで足止めを食らったのだ。

勿論僕が食らった訳ではない。

電車の乗り方も、地図の見方も今でもあまり理解出来ていない僕は、母親の付き添い無しではライブハウスに行く事が出来なかった。

だからこそ僕は母親に言った。

「出来ない自分が悪い。だから行かない」

時間は開場時間をとうに超え、開演も間近と言った所。

一番後ろの大きな扉が開くとうっすら入るあの光が、僕は大嫌いだった。

ステージと客席で作り上げられた雰囲気に水を差された気持ちになって、現実離れした筈の空間が一気に現実によって暴かれる。マジックの途中で他人から種を明かされた、そんな時に似ていると思う。

真っ暗な空間でライトを浴びているから、ステージは輝く。

真っ暗な空間でそれを見上げているから、ステージは輝いて見える。

その約束を破られた、そんな感じだ。

 

だけど母親は行くと言って聞かず、ライブも中盤という時分にその扉を開ける張本人になってしまった。

次の瞬間視覚と聴覚を歌が貫いた。アルバムの中のタイトルで、恐らくこの日初めてライブで行われたであろう楽曲『薔薇と紅蓮』。

黒と赤のコントラスト。

一度聴いた瞬間に心を奪われた歌詞。

生の声、生の表情、立体的な音圧。

それはCDで聴いた瞬間も、MP3プレイヤーで繰り返し聴いた時間をも軽々と超えて、僕をジャックした。

 

僕は記憶障害を持っているから、大抵の過去は忘れてしまう。

忘れた事も忘れてしまう程に。

それでも時々こんな風に、正に焼き付けられた様に記憶が残る事がある。

僕にとってこの一連の出来事と『薔薇と紅蓮』は特別なモノになった。

 

そして昨日観た『薔薇と紅蓮』は、その会場の空気は、あの日をもう一度再現したと思える程同じ色をしていた。

何が辛いのか聴こえる。どれ程辛いのか見える。同じ傷が自分にもあるのだと気付く。

シャラクさんにもまだそれがあるのだと、気付く。

 

血溜まりの紅。

酸化した血と落ちる血が混ざった生と死の色。

 

そうか、忘れていたのだと気付いた。

自分がまだきちんと血を流している事を、すっかり失念していた。

遠い昔の知らない自分が、生きる為に手放した痛覚と記憶。痛覚と記憶が無ければ辛い事も無くなる筈だった世界。無くならなかったから矢面に自分が立たされている世界。

世界も自分も何一つ変わっていやしない。それすら忘れている事実。

 

ライブに足を運ぶ理由。

杖をついて、未だによく分からない電車に乗って、知らない道を歩いてまで行く理由。

気付かないまま負っている傷に、ちゃんと気付きたいからだ。

痛覚が無くても記憶が無くても負傷し続けている、他者の傷を見ることでしか自分に反映出来ないそれを意識に昇らせなければ。

きっとまた突然倒れて瀕死になってからじゃないと解らないから。

手当ての方法は今以て分からないけれど、自覚や自認で少し庇うくらいは出来るから。

這いつくばって死ぬまで意識を保つ為に。

明晰夢ばっかり見るし内容が全部悪夢な件。

最初に明晰夢を見たのはいつだったか……。

それくらい昔から日常的に明晰夢を見ている。

 

当事者の見解としては『日頃殺してる自分からの逆襲』だと思う。

だから内容は全部悪夢だ。

怖いんじゃなくて、嫌とか不快な悪夢だから滅茶苦茶疲れる。

でも自分に負けるのも癪だから全力で抗う。

 

先日暗い視界が開けると、そこは低いビルの屋上だった。

(あー、もう寝たのか。)

そう思いながらいつも行っている確認をする。

「あー、あー、これは夢だ。これは夢だ」

大声を出すとエコーが掛かる。いつもの反応だ。

次に両足で床を強く踏む。体の感覚は正常だ。

最後に飛べるかテスト。

ジャンプをすると高く舞い上がり、ゆっくりと降下。

少しずつ高さを増していって、最終的に空中浮遊ができるか確認。

確認完了。これは夢である。

 

しかし自分の思い通りに夢を進めるのは難しい。

何故なら起きている間殺してきた俺から逆襲されるターンが睡眠だから。

 

毎回同じ場所で迷っては目的の駅に辿り着けない。

地下アイドル達が歌って踊っている路地。階と階を不規則に繋ぐエスカレーター。

クスリをキメた悪そうな青年達が何の葉っぱか分からない巻き紙煙草を吸っている区画。

 

<<続く>>

幸せを乞う事に理由は必要か。

NHKで放送していた脳チップについての番組を観た。

 

脳にそのチップを入れ(現在では既に電極を被るだけで良い)外部のコントローラで入力すれば感情を意のままに操れるという技術。

開発者本人は逝去するその時まで

「これはナイフと同じだ。医者も暗殺者も使う。使う人間によって善か悪かが分かれるだけで技術は決して悪ではない」

と信じていた。

 

番組では独裁者や軍人が用いる危険性や倫理を通しての疑念を前面に打ち出していたが、果たしてそうだろうか? と俺は思った。

なのでその過程を書きたい。

 

まず、どんな世界・社会であってもその装置で幸福感や喜びが得られるなら民は幸せである。

その装置を介しての幸せだと解っていようが感情が動いているのだから理性の前には及ばない。実際現実に自分が幸せであるからだ。

 

では披検体として俺自身を用いてみよう。

番組内では個性の書き換えも可能だとあったので良い例になる筈だ。

 

最初に変えるのは性自認である。

FtMである自分を『私は女性で間違いありません。今までが間違っていました』と書き換える。

性別の次は価値観だ。

偏っている様々な価値観をマジョリティ側に書き換えよう。周囲の不快指数は激減間違い無しである。

更に元々備わっていない愛情も作れる筈だから、恋愛をして結婚をして子供を産んで育てよう。

その全てが嫌ーーー否、そもそも厭世家の自分などもう書き換えられているのだから全うな社会人生活を送れる。

こうして僕という人間1人を披検体にするだけで、失われた労働力と生産力が1人分丸々回復する。更にその当人である僕は装置によって幸福と喜びに満ち溢れる人生を送れるようになるのである。

 

人権だの自由だの、そういった目に見えない物を信じている方は一度考えてみるといい。

本当に今のあなたは歪みの無いあなたその者なのか?

その健康や地位を剥奪され、身に覚えの無いレッテルを貼られてドン底まで堕ちたとしても、それは歪みの無い自分が選んだ正しい道だと胸を張れるのか?

 

既にこの世の中には様々なコントローラが存在していると俺は思う。

人によりそれは陰謀や裏の~と姿を変えるが、つまる所世界から個人までをコントロールしている物は全てコントローラだ。

洗脳されていないと断言出来るか? 信じている神が偽物だと証明されても尚信仰出来るか?

自分以上に自分を知り操っている存在など居ないと言い切れる証拠はあるか?

 

俺は全てにノーと答える。

そもそも自分の意思が本物だと信じてなどいない。

これを書いているのも自分の意思ではないのかもしれない。

それでも書きたいから書いている。書きたいと思っているとしても、思わされているとしても、そんな事はどちらでも構わない。

『俺は書きたい』そう感じているという事だけが俺にとっての事実だからだ。

 

辛い死にたい生きていたくない。

それしか人生に感じていない俺が脳チップによってマジョリティになり幸せを得る。

それがまやかしだろうがインチキだろうが構わない。

人が幸せを乞う事に理由は必要だろうか。

人が幸せを乞う事に、倫理は必要だろうか。

倫理によってもたらされる不幸は、必要だろうか。